赤祖父マップ

ただの日記です。

日記20190826/黄色いTシャツ/ジオウ最終回を見た(ネタバレなし)/ビタイチ金は出さない「古い街並み残せ」論者

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家うな丼。うなぎを絶滅から救うために食べなくなった人、そして既に加工されてしまったいのちをムダにしない活動として食べる人(わたしです)、この二人三脚で頑張っていきましょう!!!!!!!!!!!

 

外出用にチョイスしたTシャツ(スプラトゥーンの世界で、初心者が着る設定のTシャツ)が黄色いものだった。そういえば今日は24時間TVを放送しているんだ、とネットで気付き失敗した。なんかそういうのに乗ってるっぽく見えちゃわないか不安だ。

そして全然関係ないけど、ぼくの弟は群馬からわざわざ武道館に募金を持って行った経験がある。同じ両親、同じ家で育ってもこんなに差が出るのだから子育ての正解なんてわかるわけないよねえ。

 

 

仮面ライダージオウが最終回だった。顧客の望むモノという感じでぼくは良かったと思う。ついでにエヴァもベルセルクもこの終わり方にすればいいと思ってる。 

この作品に対しては論理的考察自体が無駄で、お祭りとして楽しむものだよというのは大分前に暗に、あるいはストレートに提示されている。

名前は伏せるが、ある仮面ライダーとスーパー戦隊シリーズを毎週見ては感想を書いているブログがあり、たまに読んでいる。自分も仮面ライダーゴーストが耐えられないほどつらい作品だった一方、感動したみたいな意見も世間には普通にあるので、前者のような感想を持っている人はいないのかと探してみたのがきっかけで発見したブログだ。

その人はフィクションの理論や強度を重視している。すべての要素には整合性があって、とある台詞や演出には必ずそれを採用した理由があって、後に伏線回収されたりキャラクターの形成に資するべきであって、つまりはフィクションは理詰めで作られているべき的な思想を持っているっぽい(違ったらすみません)。言い換えれば、意味の無い演出、矛盾がある、キャラクターがブレる、といったあたりを許さないタイプの人だ。ところが両シリーズとも1年を通してメイン監督の他に数人で分担したりしてて、普通にブレることがままある。それが許せるか否かはそのときのメインストーリーの勢いとか役者のパワーとかアクションとかで帳消しになることもある。

ぼくも特に劇場版などでそういうクソ度の高いものは「う〜ん」と思うこともあるけど、そっちな志向がかなり強い人のようだ。

その人は想定通りジオウは初回からディスっていて、1年ディスり続けながら見るってどういう気持ちなんだろうとちょっと心配になる。見るの辞めればいいのに…。でもディスるのが活力って人もいるのかもしれない。

(ぼくは仮面ライダーゴーストは途中から早送りでのみ見ました)

(なお別にその人をディスるために言ってるのわけではないのです。URL知りたければDMとかでお教えしますね…)

 

 

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古い街並みを好む街歩きクラスターの中で、少なくとも自分がリスペクトしている範囲の方々に関しては「古い街並みが時代の流れで消えていくのは仕方ない」という原理原則の考えが通底しているように思っている。それは、そもそも当事者じゃない外野が無責任なことを言えないこと、その土地に住まう人に対するリスペクトとそれを想える想像力があること、そして愛。これに尽きる。

再開発を推し進めるデベロッパーを悪者にして「古い街並みを残せ!」「街が死ぬ!」「街の個性が死んで均一化される!」と批判する人がいる。ビタイチ金も出してないのに、だ。なんだこいつ。恥を知ったほうがいいと思う。あと税金のことなんかも知ろう。

古い街並みに愛がある人は淡々と訪れ、ささっと記録し、街の人と会話して、心に焼き付ける。いつか無くなるとわかっているからだ。またそれらをアウトプットして次代に残す。一方、愛の無い人は無責任にしがみつく、「○○が好きな自分」をアピるツールとして使う、悪の組織を定義して攻撃する。

あるバス停の名前が変わることを批判している人がいた。そのバス停を冠する会社が移転で居なくなったのだから変更は当然なのだが、彼いわくそれは「街を殺す」行為とのことだ。江戸時代からその会社名の土地だったらまだ理解できるけど、しょせんここ数十年の話じゃねえか。こういう近視眼すぎる残念な人が同じ趣味界隈(ただし川を隔てた向こう側だけど)に結構いるんだよなあ……。全体的に無責任に自分のキモチイイことだけ言う物言いに慣れてる人なのか、自分のことばに責任を持てるか、そのあたりの意識の違いなのかもねえ。